コラム・ 嚆矢(こうし) 8.15.1945 終戦の日の記憶+
昨年10月時点で、戦後生まれの人口が全体の88.8%に達したとの報道がありました。戦時中や終戦に関する記憶を、直接聞く機会はますます少なくなっています。そうした中で、小生がこれまで直接見聞きした内容を、ここに記録として残しておきたいと思います。
● 陸軍中野学校出身の方の話
この方は陸軍中野学校を卒業後、満州にて任務にあたられました。中野学校では、「生きて虜囚の辱めを受けず」といった日本軍一般の教育とは異なり、「たとえ捕虜となっても、二重スパイなどとして生き延び、任務を遂行するべき」という教えがあったとのことです。 戦地では太ももに銃弾を受け、麻酔なしで弾を摘出されたという過酷な体験もありました。終戦後は、学校における体育教育や、障害保険制度の確立に尽力されました。
● 江田島・海軍兵学校出身の方
この方は、江田島の海軍兵学校に第77期として、昭和20年4月に入学し、同年中に卒業されました。これは同校最後の入学期であり、戦争終結とともに学校を離れました。 戦後は造船設計技師として復興に従事されました。酒が入ると「ハップ、ハップ・トゥ・スリー・フォー!」と大声を上げて闊歩され、「戦後復興のために働く」が口癖でした。
● 三重海軍航空隊所属の航空兵
この方は、三重の海軍航空隊に所属しており、昭和20年8月15日には、連合艦隊が千葉・九十九里浜に上陸してくるとの情報を受け、迎え撃つため列車で現地に向かっていました。その為、終戦の詔勅には接することなく、九十九里に到着したそうです。 航空兵としての生活は戦時中も比較的整っており、正月にはおせち料理が出るなど、当時としてはそれほど不自由は感じなかったとのことです。軍国少年として航空兵を志願し、町内会で唯一の合格者だった事を誇りに思っていたそうです。しかし、戦後は一転して日本共産党に入党し、地域の労働組合運動に尽力されました。
● 証言:戦後の沈黙を破って
最後に紹介したいのは、この夏、封切られたドキュメンタリー映画「黒川の女たち」(松原文枝監督/テレビ朝日制作)です。戦後68年を経て、満蒙開拓団の女性たちが体験した性被害の事実が語られました。
講演会では、2人の 女性が満州からの引き揚げの際、ソ連軍に護衛を依頼した見返りとして、「若い女性を接待役として差し出す」という実態があった事を証言しました。こうした事実が、長い沈黙を経てようやく語られるようになったのです。
結びに
記憶は風化していくものですが、語り継ぐ努力によって、次の世代に繋げていくことが可能です。戦争を直接知る世代が少なくなる今だからこそ、個々の記憶を記録として残し、語っていく意義は大きいと感じています。
(昭和44年機械科卒 大石 仁)