コラム・ 「103系」と「100系」と田町キャンパス

 私は自分では「まだ若い」と思っているのだが、もっと若い人がこれを読んだら、ずいぶん昔のことに感じるだろう。

 

 私が高校に入学したのは1985(昭和60年)なので、もう40年も昔のことになってしまった。通学は西日暮里で乗り換えて田町までJRで通っていた。と言っても、入学したときはJRではなく、分割民営化する前の国鉄であった。このため、毎日乗る山手線や京浜東北線は「国電」と呼ばれていた。当時の国電は車両の冷房化が進められている途中であり、冷房車に当たらなかったときは、天井からぶら下がる首振り扇風機の風が一番よく当たる場所を選んで満員電車に揺られた。まさに「酷電」と揶揄されるほど過酷な通学だった。

 

 当時の国電は「103系」が使用されていた。一世を風靡した通勤車両であるが、今の若い人は知らない人が多いだろう。窓も2段式で、下の窓は両脇のレバーをつまんで上に持ち上げると、窓の上部の壁の中に収納できた。さらに上の窓も上に持ち上げると壁の中に収納できたので、窓を全開にすることができた。このようにして、非冷房車でも少しでも涼を取ろうとして風通しを良くしたものである。もっとも今の車両は窓から顔や手を出せないように、このような構造にはなっていない。

 

 母校のグラウンドのすぐ脇を東海道新幹線が通っているが、入学した当時走っていた車両は「0系」といういわゆる団子鼻の形状をした初代の車両が全てである。

 そんな高校1年の時に新型車両の「100系」がデビューすることになった。それまでのずんぐりむっくりした顔立ちから、鼻がとんがり、シャープなフォルムに変わったので、斬新なデザインにワクワクした。「100系」の試運転をするときには、先生が授業を中断して校庭で観に行ったことを今でも覚えている。

 しかし、そんな「100系」も20年以上も前に引退してしまった。

 

 来る20274月には母校が大岡山に移転する。あと40年も経つと、田町にキャンパスがあったことが思い出話として語られることになるのだろうか。

 

(鉄道研究会OB